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俺の話しを聞けVol128 「転機」
 
 本日還暦を迎えるに当たり、少しだけ過去をさかのぼってみることにしました。

 これまでたくさんの人に巡り合い、助けられ、たくさんの幸せをいただきました。

 私の人生の転機にはその都度素晴らしい人に出会い、支えられ何かと今日まで生きてくることが出来ました。

 一言では言い表せない「ありがとう」をすべて人にささげたいと思います。

 1954年9月5日 午後20時53分 身長52cm 体重3413gでこの世に生を受けました。

 父親・隆安、母親・フサコ。残念ながら両親は亡くなってしまいましたが、今生きていたら一番先に
 感謝したいと思っています。

 幼少の頃の事はあまり記憶がありませんが、父親の仕事の関係で東京に住むことになり、工場の中の寮で暮らして

 いました。工場の若い社員達にいろいろ親切にしてもらったようでした。

 おそらく私の人生最初の転機はそうした東京の暮らしから小学校へ入る時に小田原に引っ越してきた時です。
 友達も無く入学式を終え教室で話し相手もいません。転校生でもないので周りの子供たちはそれぞれの出身幼稚園の

 仲間と遊びます。時折話しかけられても当時の私は「小田原弁」が使えず標準語で話しますから、

 ますます孤独感を味わっていきました。数週間の時が流れ、ある時友達に話しかけられ「そうけ!」と小田原弁で
 答えた自分がいました。自分が「小田原人」になった瞬間でした。
 
 小学生の低学年では東京オリンピックの聖火が国道を走るのを旗を振りながら見たり、新幹線の実験車両に乗ったり、
 万国博覧会(大阪)に行ったり、自分というより国の転機の中で生きていました。
 中学校の初めの頃は、何となく勉強が出来て、勉強しなくても小田原高校は間違いなしと思っていたところ、
 3年生の夏、担任から西湘高校に入るからと断言。おそらく人生の中で一番勉強したのではないかという時期を
 3か月くらい過ごした。その甲斐あってか、何とか合格「やればできるじゃないか。」
 
 西湘高校に入学したことが私にとっては大きな転機につながった。
 入学時に決まったクラスが14ルームという8クラス中、2クラスだけの男女混合。さらにこのクラスだけ
 男子クラスが並ぶ位置にあったので、男子クラスからも女子クラスからも休憩中の人の出入りがやたらと多かった。
 クラスでのまとまりも良かったし、他クラスとの交流も多かった。卒業して40数年経つがいまだに定期的に集まるのは
 このクラスのメンバーだ。
 入学して最初の夏休みが終わり、生徒全員が体育館に集合させられた。校長先生の離任式だった。
 確かに入学式には見た記憶があるがほとんど関わる事の無い人の離任式に出されても迷惑な事だった。
 が、去っていく事に寂しさを訴える校長先生。胴上げをし悲しむ先輩たち。最後は映画「シェーン」の音楽で体育館を出て、
 沿道の人達が見送る。こんな先生がいるのか?しかも校長先生。当時「帰宅部」で無気力無関心だった私が感動した場面だった。
 人生で初めて「ファンレター」を校長先生に送った。返信には「古川君が西湘高校を支えてくれ」と書いてあった。
 残念ながらそのはがきは亡くなってしまったが、彼が退任する最後の在校生、関係者全員に直筆で書いた色紙には
 「人間で勝負」と記されている。今でも私の部屋の真ん中に飾ってあるが、彼の存在が高校生の私を支えてくれた事は確かだ。
 その後も手紙や彼が学校に来るときは話をし、私も生徒会長になって学校行事に関わるようになり、
 卒業式には答辞を読むことにもなりました。卒業後も何かとお付き合いをさせていただき、
 彼が紫綬褒章の受勲のお祝いの際は何万人の教え子の代表で挨拶させてもらい、私の結婚式では主賓として挨拶していただきました。
 その後、お身体を悪くされリハビリの甲斐も無く旅立たれましたが、今でも私の心の師匠である事には変わりありません。
 その人の名は「松村直」様。
 
 高校生の私はとりあえずこれからの人生、大学くらいは出ていた方がいいかと思っていましたが、いかんせん勉強はしないで、
 生徒会や部活の演劇部に精を出していた関係で先生からも見放され、行くところがありませんでした。たまたま用事で行った
 職員室の先生の机に日大の建築課の案内の封筒が置かれていました。短大でしたが「推薦」の文字があったので早速担任に
 先生ここに推薦してよ!とお願いしたところ、お前のような成績のやつを推薦したら学校の恥になると却下。ここでくじけてしまって
 行くところが無い私は、封筒を手に必要事項書いてくるからよろしくね!とその場を立ち去り、翌日改めてお願い。
 何とかもぐりこむ事が出来ました。
 絶対に落第だけはしてくれるな!と先生の願いもむなしく趣味のお芝居に没頭し、1年生を2回、結果的に短大を3年で
 卒業し大学時代に知り合った小田原の工務店にそのまま就職。ミサワホームの仕事現場を任され9か月経ったある日、
 どうしても納得できない現場を任されていたが、このままでは前に進めないと突如退職願を提出。
 慰留もされたし次の行く場所も無かったが、とりあえず退職(とはいえ現場を捨てられないので完成まではやめられなかったが)。
 とりあえず親元に住んでいたので食べる事だけは何とかなったが、さてどうしようかと考えているところへ
 ヤオマサの当時の社長から工務店への仕事の依頼。辞めた旨を話したところ「若いもんがプラプラしていてはだめだ!
 うちに来い!」と言われ、断る理由もなく就職してしまった。家業から企業への転換期であったこともあって
 在職中は結構好きな事をやらせてもらった。25歳で店長。30歳そこそこで役員になり25年の歳月が流れた。
 ヤオマサに就職して最大の転機は現在の奥さんに出会った事かも知れない。出会いから結婚に至るまでのいきさつは省くが、
 結婚までに特に彼女の両親・義妹には迷惑をかけてしまった事に今でも感謝しています。
 
 ヤオマサもいよいよお世継ぎの問題が発生し、いろいろあったが、息子が継ぐことに決まった。
 私が45歳の時で自身の将来も考える時期になっていた。「続ける」選択肢と「辞める」選択肢の中で後者を選んだ瞬間から
 私の新たな転機が来た。何の能力も技術も無い自分にとって次の一手は全くなかった。時間だけが過ぎて行く。
 そんな時整理し始めた関連会社の受け入れ先の社長から古川さん辞めてどうするの?と聞かれ何の策も無いことを告げると、
 「じゃあこの会社やったら!」と。
 当時のこの会社は継続的な赤字。設備投資もままならない完全なお荷物会社。だから処分するために動いていたんじゃないか。
 もちろん即答は出来なかったが、進むべき日が閉ざされていた自分にとっては全く新しい選択肢が突然現れた。
 「もしかして自分がやったら!」という新たな可能性を考え始めていた。ただ辞めるという選択肢から、
 お荷物会社を受け入れるという事でヤオマサにとっても私にとってもWinWinの関係式を提案することが出来た。
 (今考えるとかなりの確率で私の負けだったが)その段階で現在の専務木下徳彦を受け入れ新しい会社にすべく
 一旦全社員を退職させ、労働組合を作らせ、全く新しい体制で会社を運営することにヤオマサの協力も得て独立させた。
 その立役者が長坂伸容氏だ。
 独立してからは、新たな出会いの連続だった。何の財産も無い私を全面的に支援してくれた銀行。
 センター契約してくれた地主様、数々の提携運送会社様、この場に列記したら行数が足りなくなるほどの方々。
 それからしばらくして、飲食事業をはじめ、商店街活動に参画するようになり、その活動がきっかけで
 「ジャカジャカ」というライブハウスを創ることになった。
 運送業とは全くジャンルの異なる事業をはじめて賛否両論ではあったが、とりあえず今の段階ではそれなりの価値を
 感じてくれる仲間たちが多くいてくれることは確かな事だ。
 「もし、この店をやっていなかったら」と考えると、もっと「楽」だったかもしれないが、
 こんなに「楽しく」はなかったと思う。
 自身の人生すべて「楽しいか楽しくないか」が価値判断の基準なのでそういう意味では、
 こんなに楽しくさせてくれるのはこの店があったからだと思う。
 
 たかだか60歳くらいで人生を振り返る気も無いが、改めてなんで「俺はこんなことをしてるんだろう?」と思う時、
 もしあの時あの人に出会っていなかったら、あの人に助けられなかったらと考えると、今いる場所が大きく変わっていたと思う。
 皆さんとも出会えていなかったかもしれない。
 ただ確実に言えることは、もしタイムマシンがあって過去に帰れるとしても同じことをして過去にめぐり合った人たちと
 もう一度同じ夢を見てみたいと思う。そして今日同じ場所に居たいと思う。
 そして今の自分にとって一番大切なことは60歳は「ゴールではなく再出発の齢だ」という事を
 改めて自覚し、これから新しいことに挑戦していく覚悟を決めたい。
                                   2014年9月5日  
 
 
 
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